“夜”〜ロベール・クートラスに寄せて〜

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「耳鳴り」                清水たみ子

お耳の中に夜がある、

くらいさびしい原がある、

風があれてる塔がある、

小さいあかりがともってる、

窓に羽虫がむれている、

そして遠くに鐘が鳴る。

『かたつむりの詩』(かど創房)より

内なる世界、そこには必ず夜があって、小さな物語たちがほの暗い灯りの中でひっそりと語りかけてくる、そんな時間をぼくらは必要としているのではないだろうか。

内なる夜といえば、ロベール・クートラスという画家をご存じでしょうか。

ぼくが初めてクートラスの作品と出会ったのは今からもう10年以上前、札幌に向かう飛行機の中、機内の座席で読めるように置いてある機関紙の中に写真とその記事があった。

その時はただぼんやりと眺めていただけなのに。

貧しさのせいで、まともな画布を手に入れることすら困難だったので、靴の入った函、ボール紙、拾ってきたあり合わせのものに下地を塗って描いたという“カルト”(cart、毎夜ほぼ1枚のペースで描き続けられ、その数はおよそ6000枚)という手札大のカードに描かれた、女性の顔が闇からぼんやりと浮かび上がっているようなその画が、なぜか後になって執拗に脳裏に焼き付いて離れなかった。

その雑誌に掲載されていたのは、おそらくこの作品か、それに近いものだったと記憶している。

どうしても気になって、後になってからその画家の名前や作品群について色々と調べようとしたものの、記憶が曖昧すぎて様々なキーワードで検索したところで辿り着けない。

差出人不明の手紙のような、ぼくの知らないどこか遠くの深い闇から届いたメッセージのような、そんな絵だった。

今は残念ながら閉店してしまったのだけれど、東京杉並の西荻窪に“Timeless”という古本屋さんがあった。北口を出て路地を少し入ったところにあって、こぢんまりとして趣味の良いお店だった。ロゴが椅子で、店内にも同じようなソファが置いてあり、そこで気になった本をじっくりと眺めることができた。

足繁く通っていたその店で、ぼくはクートラスと再会した。

新書サイズの画集で、題名は“僕の夜”

手札大の様々な“カルト”が実寸大で収められている。

小池昌代さんの素敵な文章も添えられていて、

少し高かったけれど持ち合わせをはたいて迷わず買った。

クートラスの作品の何にそこまで惹かれるのだろう。

決して「立派」ではない、むしろ無造作、でもその中には確かに美が潜んで、というより美そのものが“むき出しのまま”ある。

“美”をそのまま“夜”と言い換えても良いのかもしれない。

なぜだろう、そんな気がした。

「僕は描かなければいられない。だから毎日絵を描くし、紙がなければ地下鉄の切符にだって描くだろう。材料とかテクニックは二次的なことさ、たった一つ大事なことは、何かを探しているってことだよ」とはクートラスの言葉。

内なる美、本質的なものごとは日々の忙しさにかまけていると、あっという間に忘れ去られてしまう。

自由か、さもなくば死か!というテクストが意味深にぎらりと光る。

詩人中原中也の場合、こんな美しい夜がある。

「更くる夜」            中原中也

毎晩々々、夜が更けると、近所の湯屋の

   水汲む音がきこえます。

流された残り湯が湯気となつて立ち、

  昔ながらの真つ黒い武蔵野の夜です。

おつとり霧も立ち罩めて

 その上に月が明るみます、

と、犬の遠吠えがします。

その頃です、僕が囲炉裏の前で、

  あえかな夢をみますのは。

随分‥‥今では損なはれてはゐるものの

 今でもやさしい心があつて、

こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、

  感謝にみちて聴きいるのです、

感謝にみちて聴きいるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ぼくは今、何かを探し続けられているだろうか。

そっと語りかけてくる小さな物語りに耳を傾けられているだろうか。

そういえばこの中原中也の詩を題材に仲間内でお芝居を作ったことがあったなぁ。

いつまでも新鮮な気持ちでワクワクドキドキしながら

舞台や音楽を作り続けて行きたいと思うのだった。

↑こちらに冒頭の詩が紹介されています。

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