ぼくが子どものころ、
まだ、公園や空き地に瓦礫がたくさん埋まっているような場所があった。
多くは陶器の破片で茶碗だったり屋根瓦だったり、なぜそんなところに
割れた茶碗やら屋根の瓦が埋まっているのか不思議だった。
不思議な魅力と好奇心に駆られて掘り返しては眺め、きれいな絵付けの陶器の
かけらなんかをこっそり持ち帰ってコレクションしていた。
そんなある日、ばあちゃんが東京大空襲の話をしてくれた。曰く
この辺りは一面何もない焼け野原になったのだそうだ。
この瓦礫もきっとその時のものだと思うよ、と。
自分の家の上空にボーイング29型爆撃機が隊列を組んで焼夷弾を落としていく光景は
想像もできなかったけれど、公園の隅っこの地面に埋もれた瓦礫を触っていると
なまなましい感覚が呼び起こされた事をよく覚えている。
人はなぜ戦争をするのだろう、人間てなんだろう、と子供ながらに考えていた。
ほんの100年にも満たない何十年前の出来事でさえ、こうして土に埋もれ、
半ば忘れ去られようとしているのに、世の中には何万、何十万年という
気の遠くなるような昔のひとの営みを、
文字通り土を掘り起こし研究されている方がいる。
今の私たちにとって、重要な(生き残りをかけた)意味を持つ仕事だ。
差別や単純な憎悪の根源には無知がある。と、常々思う。
それらも生き残る手段としてはある程度有効なのかもしれないけれど、
やはり限界がある。
それに対して知る、考えるということは無限だ。カッコ良く言ってしまえば愛だ。
この本の中には、愛がぎっしり詰まっている。遙かなる人間愛だ。
ネアンデルタール人という言葉は、子どもの頃からぼくも知っていたと思う。
毛むくじゃらで棍棒を振り上げて、寒そうな背景なのに半裸の原始人。
あれから30年以上の時が経って、地層の調査技術やゲノム解析の技術が発達して、
細かなことが次々と明らかになり、今までのイメージが覆され続けているのだ。
そして現生人類のDNAの中に彼らネアンデルタール人の遺伝子の多くが残っている、
というところまで。
そのことは彼らが、かつても今も人間だということを意味している。
(一部抜粋)と本書は語る。
人類が今のようなかたちになったのは、
ただ偶然が重なっただけのことで、(人類は何度も絶滅しかかっているそうだ)
“決して我々現生人類が優秀であったから”ではない。
女性サイエンティストならではの詩情あふれる艶やかな文章に乗って何十万年の
私たちの親戚を訪ねる旅に出てみてはいかがでしょうか?
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ネアンデルタール人達は動物の内臓を良く食べていたそうだ。僕らも負けずにモツ鍋
食べよう!
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