〜夢と記憶の回廊〜上林暁短編集

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この夏、上林暁という作家の短編を読んでいた。

西荻窪に音羽館という古書店があってよくぶらぶらするのだけれど

行くと必ずと言っていいほどハッとする出会いや発見がある。

そこでこの”上林暁短編集”なるものを見つけたのだ。

下宿先の娘を連れ出して旅に出るちょっと色っぽい”天草土産”や短編集の題名にもなっている学生時代の先生を描いた”孤独先生”、画家の魂を儚い恋物語に乗せた”手風琴は古びた”、等、など。

美しい文章をちびちびと味わっていたのだ。

その中に”二閑人交友図”という一編がある。二人の文筆家が(片方の一人は作者本人であるらしい)

それぞれ苦境を抱えつつも爽やかに、将棋を指したり酒を飲んだり湯に浸かったりするのだが

それを読み始めた時、記憶の奥底から何かが静かに湧き上がってくる感覚があった。

いつ読んだという記憶はないのだけれど確かに読んだことがある。

作中の風景や感じる空気感は確かに知っているのだ。”この場所は知っている”という確信があった。

それも読んだ場面はどうやら試験会場だったような記憶も甦ってきた。

高校入試か大学入試かそういった大きな試験だったと思う。

その時分の私はきっとトンチンカンな回答をしたのに違いない。

それと同時に”大人になる”なんてくそくらえだと思っていた。

今もそう思う節もなくはないのだけれど、その質はだいぶ違う。

知らず知らずのうちに伴侶や子ども、持病、やぶれかぶれのキャリアなんかを背負ってしまっている。

それはそれは皆愛おしいもの達なのだが

それらを知って初めて見える景色というものがある、ということに気付いてしまっていたのだ。

そして今、もう一度この小説を読んでみると

あの試験会場で読んだ時とは全く違う素敵な世界に出会えるのだった。

果たして今その正解にふさわしい回答ができるかどうか、は別として。

それから若者にこの作品を読ませたいと思う年寄りな気持ちも少なからず解るようになってしまったのだ。やれやれ

どっこいしょ。

話は少し変わるのだけれど、私は認知症という呼び方がどうもしっくりこない。

つい我々は認知症というと一括りにしてしまいがちだが、原因にも病気にもいくつか種類がある。もっとも多いのがアルツハイマー病だけれど、その中でも人によって症状の出方はほんとうに千差万別だ。怒る人、泣き出す人、どこかへ行こうとする人、帰りたい人、何かがいつも無い人、食べちゃう人、他人のせいにする人、それから、不思議な物語を語りはじめるひと。

見えている世界はひとそれぞれ違うのだ。

そんな方々のそばで私は働き、月に一度音楽セッションをさせていただいている。そこではファゴットも吹くしリコーダーも吹く。ウクレレ弾き語りで歌を歌ったりもする。一緒に歌を歌ったりおしゃべりしたり。

そしてあとで読み返したり確認できるように、必ず喋る内容と歌の歌詞を冊子にしてお一人ずつお渡ししている。耳の聞こえづらい方のためにも。

ある日Sさんの部屋に呼ばれた。

真剣な面持ちで打ち明けられたのが

「私、認知症なんです。」

知っている。おお知っていますとも。

でもそうは言わない。そうなんですかとこちらも真剣に返す。

「わたしの傘がないのよ。ここはずーっと回廊みたいになってるでしょ。周りに木が生えていて、出入り口はあちらの方かしら。ずいぶん広いのねぇ。そこに傘立てがあるでしょう。そこに傘を置いておいたんだけども無いの。この間通った時はあったのよ。通るたびにあったり無かったりするのよ。どうしてだかわかる?」

うー解らない。解らないけど解らないとは言えない。なるほど、傘立て、回廊、あったり無かったりする。

ちなみに傘はどんな傘ですか?と記憶に探りを入れる。「大きな花柄で柄が黒くて…」鮮明な記憶だ。(認知症状のある方の場合、鮮明な記憶は古い記憶である場合が多い)見つけたらお持ちしますと言うと少し安心したような表情になった。と思ったら

「あ、そう」急に何かを思い出したように、「そこの角を曲がったところにホールがあるでしょう。時々音楽会やってますでしょう?あれは今度はいつなの?」

おお、音楽会を認識してくださっているではありませんか。

日にちをお伝えすると満足され、「それじゃぁその時に」

傘のことはもう忘れてしまわれているようだった。

なんだか古書店みたいだ。と思った。古い記憶と新しい記憶が生い茂る回廊をぐるぐると巡り

この間買おうか迷って買わなかったあの本がまだあるかと思ったらもう売れてなくなってしまっていたり。ずっと探していた本がひょっこり目の前に現れてみたり。全く新しい発見があったかと思えばそれが実は古い古い記憶とどこかでつながっていたり…

それではそこの角を曲がったところにあるホールでお待ちしております。行くと必ずハッとする何かがあると思っていただけることを願いながら。

あっ それから、傘を見つけた場合は忘れずにお持ちしますね。

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